最近話題となっている映画『ジョーカー』を見に行きました。バットマンの一生の敵であるジョーカー誕生の物語です。
私は映画の始まった瞬間に戦慄したのです。ほかのためではなく、その撮影に感服しました。
さすがにベネチア映画祭の「金獅賞」に飾った映画だけあって、一つ一つのカットまで非常に丁寧に磨かれています。どのフレームをとって、写真として見ても、非常に完成度が高いです。
映画冒頭のシーンからゴッサムシティに吸い込まれ、映画が終わった後でもなかなか胸の昂りが止まりませんでした。
それだけ映像の表現力が強かったのです。
この記事では、『ジョーカー』の撮影監督のローレンス・シャーのインタビュー内容を交えながら、映画のトレーラーの中のカットを分析してみます(ネタバレあり)。
映画のカットにはメッセージがあります。カットを写真として捉え、その表現方法を分析するのも写真の腕をみがく方法だと思います。
あらすじ
映画をすでに見た方はこの節をスキップして構わないです。見る予定のない方のために簡単なあらすじを紹介します。
ゴッサムシティに住んでいるアーサーが突然笑い出す精神的な病気を患っています。そのせいで、世間から忌み嫌われ、貧困な生活を送っています。
母親と一緒に暮らしているアーサーはコメディアンになる夢があります。しかし、度重なる打撃を受けて、希望を失った彼はもう一つの人格のジョーカーに変身して行きます。
構図の分析
主人公のアーサー(のちにジョーカーに変身する)の住んでいる街です。
構図として、誘導線の手法が用いられ、観客の視線を下から上、手前から奥まで誘い、ゴッサムシティの現実がこのカットで伝わります。
遠くにそびえ立つ高層ビルと手前の低い建物が対照的になっていて、貧富の差の激しさを宣言しているかのようです。真ん中を通っている鉄道は画面を2分して、人々の分裂を象徴しています。
画面中央のフレアは強い日差しであることを表現しています。画面奥にある高層ビルからきている、目が開かないくらいの眩しい逆光が、富裕層の傲慢、世間への無関心を物語っています。
仕事も人間関係も失敗してばかりのアーサーが帰りのバスに乗っているシーンです。
三分割の法則にしたがっているカットですが、人物が右によっています。アーサーと世界の間に、バスが挟んでいることがわかります。
ガラス越しにアーサーのつらい顔をが写っているが、よく見ると、ピントが画面真ん中の窓ガラスの縁に合っています。バスの窓ガラスが壁のようもので、アーサーを外の世界と分断しています。
外を複雑な表情で見ているアーサーはまだジョーカーにはなっていません。自分を受け入れてくれない世界に未練と憎みが混じっている心境なのでしょう。
このカットの前景に病床に倒れているアーサーの母親の姿があります。それが枠となってアーサーを包んでいます。
アーサーにとって、母親が唯一優しさと愛をくれる存在です。ジョーカーという悪魔の人格も今まで母親の愛によって抑えられていました。それが枠として表現されているのです。
ジョーカーの出現を止める最後の縛りが消え去ろうとなっていることが伺えます。
明暗の対立、色の対立
住んでいるアパートへの帰り道を描いているシーンです。遠くから街をとらえたこの一枚はアーサーの生活環境を描いています。
ゴミ回収者のストライキによって、ゴッサムシティはゴミの街と化しています。画面左側にはゴミの山があって、いかにもスラムにありがちな風景です。
このカットには二つの対立があります。一つは明暗の対立、もう一つが色の対立です。この二つの対立によって、アーサーと世界の対立を強調しています。
明暗の対立:
時間帯が夕方のため、画面全体が暗く、唯一明るい場所が画面右のライトです。そこがアーサーの家で、彼にとって唯一の心の拠所です。
色の対立:
画面全体の青とアーサーの服、家の二箇所の黄色が反対色となっています。アーサーはちっぽけな存在で、彼の無力さが伝わってきます。
黄色系のジャケットを着ているアーサーが画面の左から右に歩き、同じ黄色のライトが照らしているアークに向かっています。色を同じにすることで、被写体の関係性を強調して、オーディエンスの視線を誘導しているのです。
宣伝用看板を強奪した不良たちを追いかけて、街の一角に入り込んだアーサーが殴り倒されました。不良は逃げ去り、アーサーだけが呻きながら、周囲の環境と一緒に写っているシーンです。
インタビューのなか、撮影監督のローレンスはここであえて広角レンズを使ったと言っています。
ローアングルと広角によって、アーサーはゴミの一員となっています。アーサーのような人もゴッサムにおいてはゴミだと思われている比喩かもしれません。
クラウンの格好は色鮮やかです。緑の髪、真っ赤な唇と鼻、オレンジ色の服、そしてちぎられた黄色の看板が彩度の低い壁、地面などの環境と対比的です。メインの被写体を強調すると同時に、アーサーの夢は現実と相容れないものだと表現しています。
自宅のキッチンの前に立っているシーンです。
ローレンスはインタビューでこう言いました。自宅にいるときや室内のシーンは広角レンズを使うことで、アーサーの独自で安全な空間との一体感を出しますと。
ここも色の対立があります。左側の青と右側の黄色です。真ん中にアーサーがいて、二つの人格をつないでいます。まだジョーカーになりきれないが、顔むきから、一歩ジョーカーに近づいたとわかります。
広角による環境表現
上の二カットでも触れましたが、もう一カットを使って、広角の使用を説明します。
楽屋でアーサーの同僚がその場にいるもう一人の同僚(侏儒)を嘲笑っていた直後のシーンです。アーサーも一緒に笑ていたが、楽屋から出てきます。
上のカットのネクストカットでは、アーサーが笑いを急に止めました。先の笑いは嘘だったのです。
室内のシーンであるため、広角レンズを使って環境情報を取り入れています。画面右側のガラスに貼ってあるポスターに注目すると、獣に囲まれている人間が描かれています。ここはこういう場所だと主張しているかのようです。
逆光の利用
原因追及せず、看板がなくしたことで、アーサーは上司に叱叱られ、お店の宣伝の仕事もなくなりました。
上のカットは怒りに満ちたアーサーが殴られた場所に戻り、ゴミ箱を全力で蹴っているシーンです。
そもそもこの悲劇は社会のどん底にある人たちの間のいじめです。歯向かう術もなく、アーサーはゴミ箱に暴力を振るったのでしょう。
遠くには遊園地の観覧車がぼんやりと写っています。高低の対比があって、高い位置にある観覧車は低い位置にあるアーサーを俯瞰しています。同じく逆光で撮ったこのシーンは一枚目のゴッサムシティを連想させます。
殴られたシーンのときと比べ、ゴミがだいぶ増えているのです。ゴッサムのゴミ処理問題は解決されていません。社会のボトムに生きている人々はゴミのように無視されて、ソーシャルクラスの間の亀裂が深まっていきます。アーサーはだんだん社会に見切りをつけて、カオスの象徴であるジョーカーへと変身します。
ジョーカーとなったアーサーがスタジオに向かう途中のシーンです。いつも歩いている階段を狂気のダンスをしながら、降りてきます。
このカットも逆光のなかですが、鮮やかなクラウン衣装をまとったジョーカー(アーサー)は今までと違います。背景のグレーと青が文明世界の秩序だとしたら、アーサーはそれと決別したのです。徹底的に秩序と対抗して、人並みから外れます。
画面奥にある二人の人影が入ることで、ジョーカーは他人の目線を気にしないことを表現しています。
憧れのコメディアンに誘われ、彼の番組の舞台に登場するシーンです。ジョーカーは笑いの対象にされることを知っていました。
強烈な色が画面を充満しています。ここの逆光は観客とジョーカーの距離を表現していると同時に、幕の色を強調したのです。鮮やかな色は精神の不安定を表現しているなら(ゴッホの『ひまわり』)、狂気に満ちているのはジョーカーより、幕明けを待っている観客かもしれません。
まとめ
『ジョーカー』の撮影にはもっといろんなテクニクが使われていて、話しきれないくらい多いです。
色調が原作の年代感を感じさせながらも、青と黄色の二つに統一されて、フィルムの感覚をしました。インタビューによると、ローレンスのチームは事前にかなり工夫してLUT(プリセット)を作り込んだらしいです。しかも最初フィルムで撮りたかったのだが、予算の関係でやめたそうです。
印象に残るシーンもまだまだあります。アルカム病院のなかで走っているシーン、地下鉄で初めて金融マンを撃つシーン、警察の車から担ぎ出され人々に拝めらるたシーンなど、どれも驚嘆に値する画面作りです。
映画自体は深い考えをさせてくれる、現代の文明社会を反省している高さにいっています。
『ジョーカー』は冷静です。『ジョーカー』は鋭いです。
There is a Joker inside everyone.
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