映画『象は静かに座っている』:感想と撮影分析

この記事にたどり着いている以上、あなたはきっと一度この映画の絶望を味っていたと思います。

これ以上語る必要もないかもしれませんが、なくなった監督胡波で最初で最後の映画です。2018年のベルリン映画祭で大好評されていたものの、監督はそれを見届けることができませんでした。2017年10月12日に自殺したからです。

無駄なショットがあった記憶はない

坂本龍一

公式サイトに書かれたこの言葉はまさにその通りだと思います。映画館での4時間、消して無駄にはならないです。

この記事では、まず感想を述べてから、カットの分析に入りたいと思います。かなり複雑な映画なので、下の人物関係図をみて、思い出していただきたいです。

感想

この映画をみ終わったとき、一つの質問が私の脳内からどうしても離れません。

もし人生がどうしようもなく辛かったら、なぜ我々は生きることを選んだのでしょうか?

映画の中で自殺を選んだのは于成の親友と黎凯です。彼らは主人公の一行と比べたら、そこまで悪い生活状況ではありませんでした。私たち普通の人のように。

しかし、それが彼らが死を選んだ理由かもしれません。なぜなら、「生きていく」ことは生きていくことの理由にはならなかったからです。

必死に頑張って、何かのために頑張って、一生懸命生きてきたのです。それが失われた瞬間の衝撃は耐えられないくらい大きかったです。彼らと比べて、韦布らの主人公たちはつらさに「慣れ」ていたのです。

象はなぜ静かに座っているのか?

それは人生に対して絶望的であると同時に、無感情、無関心になってしまったからです。表では理屈で動いている世界が実は非合理性に支配されているのです。

静かに座っているのはなぜ象なのか?

それは陸上で最も力のある動物でさえ抗えようがない何かが、動物である以上、逃れようがない何かがあるからです。退屈から抜け出した先はもう一つの退屈が待っています。人生の不条理を語ったカミュの「シーシュポスの神話」を思い出します。

しかし、監督は映画の中で希望を諦めませんでした。象の叫び声とともに、新しい幕開けを待っている主人公たちの姿がありました。シーシュポスは争い続けることで、神に勝っているのです。

撮影分析

ドキュメンタリーのような真実感を伝えるために、ほぼ50mmのような標準レンズの画角で撮影されています。手持ちの撮影が多く、現実を目の当たりにしているような印象が強く残ります。

人物の背後から追っかけていくフレームが非常に多いです。やはり物語に登場している人物を追体験する目的だと思います。報道カメラマンのような、現場にいる人と一緒に事件の体験をするような感じです。

人物を背後から撮ったカット
人物を背後から撮ったのカット

人物のクローズアップが多いのも特徴的です。被写界深度が非常に浅く、背景から近づいてくる人がだんだん鮮明になっていく捉え方です。心理的な側面を強調する一方、他人のことをどうでもいいと思っている人間の冷徹さ、自己中心的な部分を言いたかったと思います。人の話を聞いてるシーンにおいて、話し手が画面上ではボケていて、聞き手は話し手に大した興味がないことを示しています。

話し手をボカすことで、聞き手は話し手に無関心であることを表現する
話し手をボカすことで、聞き手は話し手に無関心であることを表現する、

構図でいうと、人物の高さを利用して、心理的な非対等を表現しています。特に座っている人と立っている人がいるカットでは、タイトルの「静かに座っている」と呼応して、座っているほうの無力さが伝わってきます。

人物の位置が非対等を表現

4時間に渡って、我々観客は薄暗いシーンに耐えなければなりませんでした。鮮やかな色はなく、色の調整すらしていないではないかくらいデジタルカメラ的な発色でした。中国河北省は工業の町であり、それはただ真実の環境を語っているだけです。

河北省の空は薄暗い

ただ、唯一太陽の出たシーンがあります。韦布が橋の近くで叫ぶシーンです。今まで耐えてきたつらさ、苦しみを吐き出して、一瞬気持ちが晴れた象徴でしょう。そう、辛いときは叫ばなければ、光が差し込むこともないかもしれません。

唯一叫んで、夕陽が照らしきたシーン

まとめ

この映画で一番よく聞かれる言葉は

「なぜ?」「あなたには関係ない」「変わらない」です。主人公たちの言葉です。

合理的と非合理的、存在と不条理、監督の言いたいことはあまりにも多く積まれています。

消して万人向けの映画ではなく、ただ一度でもどん底に落ちたことのある人なら、何か共感できるものはあるのではないでしょうか?

コメント